作:葉月の神官さん
参之巻―緋眼― |
ここは果たして常世の風景なのだろうか? それとも幾つ物本の旅人であった葉月さえ知らない新たな世界なのだろうか? 如何にして辿り着いたのか分からないが葉月の意識は光の一片も差さぬ無明の闇の淵に飛ばされていた。 水を打ったように静まり返ったこの場所は一切の人の気配を感じさせなかった。 それどころかあらゆる生物や木石すら存在しないのではないのか? そう思えるほど虚無の空間に葉月はただ一人立っていた。 葉月の肉体も実体感が無く、まるで周りの闇と同化して消え入ってしまったのではないかと思えた。 彼女は何故このような所に自分がいるのか分からず、この世界に居る目的さえ見出せないまま彷徨っていた。 どの位の時が流れたのだろうか?数分のようにも数十時間のようにも感じる この虚無の闇空間に時間が流れる意味などあるか分からないが 葉月はさすらい続けるうちにこの世界で闇以外の何かを見つけた。 彼女がそれに導かれたのかそれとも偶然なのかは知る由もないが 既に闇に慣れた葉月の瞳ははっきりと或る存在を見出していた。 葉月はその存在に歩を寄せる。 ドクン 葉月は心臓の鼓動の速度が上がっていた。 ドクン…ドクン… 彼女は不吉な予感を抑える事が出来なかったが、同時に何故か高揚感も感じていた。 その存在に手を伸ばせば触れられるほどの距離まで近づくと、思いがけぬ光景に葉月は息を呑んだ。 流れるような黒く長い髪の人によく似たその存在は葉月と瓜二つの顔をしていた。 彼あるいは彼女は如何なる罪業ゆえにこのような目にあっているのか、 十二本の鎖で幾重にも縛られ動く事が不可能に思えたがそれ以前に その者は生きているか死んでいるかすら不明であった その存在は葉月の接近に気づく事が無く、長い睫毛が重そうな瞳は閉じられたままだった ドクン…ドクン…ドクン… (僕は…この人を知っている…とても懐かしい…でも…何かの弾みで忘れてしまった…大切な人…) 葉月は独りでに涙を流していた。彼女はこの人を間違いなく知っている。 だが思い出すことが出来ないもどかしさ。 それは子供の頃失くしてしまった大切なものが月日を経てから得ようとしても 取り戻す事が出来ない事に似ているのかもしれない。 そんな思いに囚われている葉月はそっとその存在に手を伸ばす だがその様を葉月と眼前の存在以外の第三者に見られている事に気がつかなかった 「誰だ!」 葉月ははっとして声の主に振り返る。 「ヤマに近づく者がまた現われるとはな。 何処かの妖魔がソーマに牽かれここに迷い込んだのか?ん…貴様ヤマにそっくりだな?」 「お前は誰だ…それに…ここは何処だ?」 葉月に声をかけた者は子供の頃絵か何かで見た閻魔大王にそっくりな服装をしていた。 威圧的な雰囲気を持つその男は葉月に対して何か思い当たる節があるのか? まじまじと葉月の顔を見つめ思い出したように言った。 「そうか…貴様はヤミーだな? 幾星霜の年月が流れ万を超える転生を経てもヤマのことが忘れられなかったのか? 哀れではあるが貴様達双子は再び会う事はまかりならん。 我は焔魔天十王が一人泰山府君(たいざんふくん)。お前には元の世界へ帰って貰おう。」 「ヤミー?ヤマ?何の事だ」 「とぼけるな!この世界から消え去るが良い!」 泰山府君は葉月の疑問に耳を貸さず、 両手を掲げると無明の闇中を切り裂くような光を発した。 闇に慣れた葉月は突然の明かりに目が眩んだ。 葉月は瞳を閉じ腕で覆い庇おうとするが、突き刺すような光は貫通するかのように彼女の瞼の中に飛び込んできた。 「うわぁぁぁぁぁっ!!!」 光の力によるものなのか脳裏を焼くような激痛に教われ、さすがの葉月も耐え切れないように叫んだ。 葉月は頼りの刀を所持しておらず抵抗のしようも無かった。 如何なる術によるものなのか彼女の体は光と同化して徐々に透明になっていった。 だが泰山府君にとって思ったような効果を得られていないのか、多少苛つきながら葉月に怒鳴りつけた。 「これ以上私を手こずらせるな!大人しく元の世界に返るが良い。」 葉月は苦痛に晒されながらまだこの世界で確かめなければならぬ事があると思い、 何とかこの不可思議な技から逃れる術を考えようと思ったが脳を抉られるような光の前に思考が続かない。 光を浴び続けた葉月の体は殆ど実態感が無くなり幽霊のように朧げに揺蕩い始めた。 「もうすぐお前はこの場から消滅する…これで貴様は二度とヤマの事を思い出すこともあるまい。」 泰山府君はようやく思ったような成果が上げられそうだと思ったのか? 他者に圧迫感を与えるような顔には似合わぬ笑顔を浮かべていた。 だが泰山府君が気づかぬうちに鎖につながれた存在は葉月の苦痛に反応するかのように 閉じられた瞼の奥がわずかに蠢いていた。 やがてゆっくりとその重そうな瞼が開かれるとぼんやりとした様子の瞳は緋色の妖光を発した。 すると鎖の内の一本が朽ち果てた枯れ枝のように解け落ちた。 鎖が切れた音が響くと泰山府君は驚愕の表情を浮かべた。 「莫迦な…ヤマが目覚めようとしているのか?ヤミーがこの場所へ来た影響なのか?」 泰山府君の発する光が弱くなったので葉月は瞳を微かに開くとヤマと呼ばれた青年の綺羅の瞳と視線が重なる。 その神秘の泉のような深い瞳に吸い込まれるような気分になった。 (これは…何だ?) 葉月はヤマの瞳を通して走馬灯のように彼の記憶が流れこんできた。 何百万年分もの出来事が葉月の脳裏に津波のように一気に押し寄せ まだ14年しか生涯を過ごしていない彼女にとってはあまりにも重過ぎる出来事ばかりだった。 最愛の妹との別れ、日と夜が別れた起源、地獄の裁判官としての役割、そして神への反逆… 悠久の時を経た数多の出来事が玉響に消えゆく水泡のように脳裏に浮かんでは消えていった。 葉月は否応無く流れ込む記憶の潮流に耐え切れないように頭を抱え屈み込んだ。 だがしばらくする内に葉月は苦しむ事を止め幽鬼の様に立ち上がった。 葉月が顔を上げ泰山府君に目を向けると彼女の瞳はヤマのように緋色に輝いた。 「莫迦な!ヤミーにヤマが乗り移ったのか!!!」 泰山府君が驚愕の表情で叫んだ。 葉月の手に閃光が煌き薄っすらと刀の形を模る。 泰山府君が葉月を苦しめていた光さえも薄闇に過ぎないと感じさせる程眩く輝き、思わず目を覆っていた。 閃光が収まると彼女の手には愛用の刀が納まっていた。 葉月は艶然な笑みを浮かべながら、泰山府君に斬りかかった。 「ヌウ…止むを得まい。ここは一旦退くしかないか」 一刀両断にされる寸前、彼の体は闇に溶け込むように消え去り葉月の刀は空を斬った。 どうやらお万の神工法に似た瞬間移動の術で逃げられてしまったようだ。 だが葉月は残念がる素振りも見せず、憑かれたような瞳を虚空の闇に向けていた。 お万と維茂は既に五十合は切り結んでいる。 だが傍目に見ても明らかに劣勢なのはお万のほうだった。 五人張りの強弓を使いこなす彼女の剛力も道術を使用後の疲労で充分発揮されていない。 粗悪品の毛抜太刀は小烏丸の斬撃に耐えかねて、のこぎりの様に刃こぼれしている。 それでもお万は葉月でさえ倒してしまった維茂相手に良く戦い続けていたがついに限界を迎えた。 維茂が振るった小烏丸を受け止めた毛抜太刀は硬質な金属音をたてると 刀身の半ばあたりから真っ二つになった。 太刀の剣先が宙に舞い、何回転かしながら落下すると芝の生えた地面に切っ先が突き刺さった。 維茂は荒々しく息を切らすお万の形が良い細い顎の先に剣を向けた。 「さっきの少女も貴様も大した者だ。鬼女の手先とは言えこのまま殺してしまうのは惜しい。 降伏して大姥の身を大人しく引き渡すのならば命を助けてやろう。」 戦後に婦女強姦が当然に行われていた当時としては珍しく 維茂は女性を手篭めにしたりしない清廉潔白の武将だった。 平貞盛の養子であるという強烈な誇りがそうさせるのか、 あるいは鎮守府将軍としての自覚で身を律していたのか。 だが彼はそのようなフェアプレーの持ち主であると共に、 敵対した者は必ず滅ぼす冷徹さも持ち合わせていた。 お万は維茂の降伏勧告を鼻で笑った。 「余五将軍ともあろう方が我等が鬼女の手先かどうかも見抜けないとは。 私を殺したければ殺すが良いでしょう。」 「投げやりだな…それとも女だから殺さないとでも思うのか?」 「もう止めて!これ以上お万を本気にさせないで!」 リリスはたまりかねて叫んだ。 「妄言にしては笑えないな。この期に及んで貴様の部下が手加減をしていたとでも言うのか?」 維茂はリリスに横目を向け嘲るように言った。 「呉葉様…私の力不足で申し訳ございません。 真の力を使わなければ呉葉様も葉月殿もお救い出来そうもありません。」 お万は寂しげに呟くと、本気では無かった事を聞かされた維茂の自尊心が痛く傷ついたようだ。 「ほう…その様でこの余五将軍相手に手を抜いていたと戯言を申すか? ならば是非とも本気とやらを見せてもらいたいものだな。」 「いいえ…“今”の私ではこれが精一杯です。 けれど本当の私をお見せしたら貴方は命を確実に失くすことになります。 私はそのような事したくありません。 もう一度だけお願いします…紅葉様に会わせて下さい。」 「笑止千万!太刀を折られ剣を向けられた貴女が取引出来る立場だと思うのか?」 聞く耳を持たない維茂に対し、お万は悲しげに俯くと瞳を閉じた。 「止むを得ません…貴方には真の私をお見せしましょう。」 真の力を出せ無かった理由をリリスは何か知っているようだが、他の者には分からない。 悲壮な決意に満ちた様子のお万をリリスは遮るように言った。 「待って…お万。葉月の様子が変よ!」 リリスに注意を促されたお万と、対峙する維茂は葉月の方に振り返った。 葉月は瞳を閉じたままゆったりと立ち上がっていた。 彼女は重そうな瞼を開くと緋色に輝く綺羅の瞳を維茂に向けた。 維茂は葉月の眼光に思い当たる節があるのか?ハッとした様に叫んだ。 「貴様…戸隠を焼き尽くした鬼女と同じ瞳の色をしているな!やはり大姥の眷属か! 少女だから殺さずに置いたが、今度は確実に貴様を殺してくれる!」 もはやお万の事など眼中に無くなった維茂は葉月に斬りかかる。 維茂の剣は風圧だけで吹いて飛ぶような葉月の痩身を襲う、 だが幾つもの斬撃は一見微動だにしていない葉月の体を捕らえたかと思うと虚しく空ばかり斬っていた。 維茂はまるで幻を相手にしているかのような気分に陥り、冷や汗を流していた。 「おのれ面妖な…ならば秘剣小烏三爪斬ならどうだ!」 維茂は葉月から距離を取ると、妖しい光を放つ小烏丸から猛禽の三爪を放った。 頭身ほどの大きさの妖光は三方向から葉月に襲い掛かる。 葉月は先程と同じく時間差で襲い掛かる爪を袈裟懸けに斬り、車斬りにして二爪目を叩き切った。 俗に言う燕返しによく似た剣法で二爪までは凌いだが三爪は防ぐ事が出来ない。 今度は身を伏せて避けると葉月は低い姿勢で地を蹴り維茂に一気に間合いを詰めた。 「莫迦が…さっきどのようにしてやられたか覚えていないのか?」 維茂は上から叩き潰すように大上段から刀を振りかぶって待ち構えた。 葉月の背後から三爪の烏である八咫鴉を模った妖光が迫る。 このままでは維茂と八咫鴉に似た妖光のどちらかを倒しても葉月は攻撃を受けてしまう。 だが葉月は防御不可能と思える技に対しても落ち着いていた。 刀を自分の背に載せるかのように振りかぶり、身を小さく屈み前転した。 上から迫り来る三爪の烏を倒すと同時に、そのまま前転の勢いで維茂に斬りかかった 見たことが無い葉月の変則的な剣術に維茂はまったく反応する事が出来なかった。 小烏丸を振り上げたまま微動だにせず閃光の如き葉月の刀が維茂を捕らえていた。 一瞬の静寂が辺りを包む、 刹那の間をおいて維茂の兜が*葵座の辺りから亀裂が入り烏帽子ごと真っ二つになった。 **髻が晒され、髪を振り乱した維茂は憤怒の表情を浮かべた。 「おのれ…貴様は物の怪か?それともあやかしの類か? だがますます貴様を紅葉殿に会わせる訳には行かなくなった。 鬼女の手先は余五将軍の名にかけて必ず倒す」 切歯扼腕した維茂は再び葉月と向き合う。 葉月も例の緋色の瞳は弱った獲物に止めをさす獣の様な眼光を浮かべた。 リリスは葉月が自分の知る葉月ではなくなってしまったかのような不安感に襲われていた。 それと共に相反する既知感にも囚われていた。 (いや…葉月じゃないみたい…でもこの迸る様なソーマ…何処かで…会った事がある…とても懐かしい) 最初に誕生した人類としてまたは魔王として悠久の時を経てきた彼女は全ての出来事を覚えているわけではない。 だが彼女にとって絶対に忘れる事が出来ない大切な存在の名を思い浮かべていた。 (まさか!…あの人が?) 思いに沈むリリスを尻目に二人は切り結んでいた。 実力の差は歴然としていた。お万すら凌ぐ剛力も憑かれたような葉月には通用せず 一合で維茂は地を舐めさせられていた。 維茂は葉月の別人のような変貌に驚く暇すら与えられずとどめの一撃がまさに振り下ろされようとしていた。 葉月のあまりにも鮮やかな手並みにリリスもお万さえも止める事が出来なかった。 誰にも葉月を抑えることができないと思われた (僕はどうしたんだ?) 葉月は自分の体に違和感を覚えていた。いつもにもまして体が軽く感じ、 先程まではとてもまともに受けきる事が出来ないと思われた維茂の剛力がまるで赤子のように感じた。 維茂の一撃がまるでスローモーションの画像を見ているようなゆっくりとした物に感じ、 面白いほど簡単に斬撃を見切ることが出来た。 維茂の渾身の一撃を軽く払っただけで大鎧を装備している彼はあっさりと吹き飛んだ。 (弱い…弱すぎる) 少女である葉月にとって戦いが楽しいと思ったことは一度も無い。 だがあれ程手強く感じた維茂が今では余りにも弱弱しく感じ、葉月は自分の内に沸き起こる力に酔いしれていた。 闇の中に蠢く獣のような眼光 葉月の中にいる彼女以外の存在 それは彼女が東葉月として生を受けて以来目を覚ますのを待ち続けていた存在 彼女の自我はその存在に吸い寄せられ、飲み込まれようとしていた。 その存在は葉月が目の前の維茂を殺す事を待っているようだ その事が獣の覚醒を促すかのように… 葉月の刀が驚愕の表情を浮かべる維茂に振り下ろされようとする。 葉月は初めて殺人を犯す事になるのにその表情に一片の躊躇いも無かった むしろ愉悦に歪んだ酷薄な表情はこれから起きる殺人に喜びを期待しているようにも見える。 常人には見切ることが出来ない速度で刀の切っ先は振り下ろされる。 風前の灯に大風が降り注ぐ刹那 (やめて!!!葉月ちゃん) 遠くから葉月を止める声が響いてくる はっきりとは聞こえない。 だが微かに聞こえてくるその声に葉月は自分以外の存在に引き込まれそうになっていた自我を辛うじて押しとどめた。 文字通り寸止めで彼女の刃は止まる。 「やめて!!!葉月ちゃん!!!」 現実感を取り戻し、今度は鮮明に葉月の耳に届いた。 葉月は元の漆黒の瞳に戻ると眼光は理性の色を取り戻していた。 彼女の刀を握る手は震えだした。 それは葉月にとって最も大切な人に一番見られたくない事を見られてしまう所だったからだ。 葉月は恐る恐る彼女を押しとどめた声の主のほうを振り返った。 「葉月ちゃん…もうやめて…」 そこには憂いに満ちた表情の少女が葉月を見つめていた。 菖蒲の花と白鳥が縫いこまれた紫の***袿袴姿の少女は葉月が最も会いたかった少女だった 紅葉のような色の瞳は、先程まで葉月が見せていた緋の瞳に似ているが慈愛に満ちたその光は全く正反対の物だった。 向日葵の色の長い髪を揺らめかせ、たおやかな体を葉月の両腕の中に投げた 大好きな初美の良い匂いが葉月の鼻をくすぐる 「初美…お姉ちゃん…」 「葉月ちゃん…やめて…維茂さんは敵じゃないのよ。私を守ってくれようとしていたの。 だからお願い…もうこれ以上は」 涙を流しながら初美は一つ一つの言葉を紡ぎ出していた。 最愛の姉と再会した葉月の視界も涙でぼやけていた。 「…わかったよ…初美…でももう僕を置いて何処へも行かないで… 初美が…一緒じゃなきゃ嫌なんだ…」 葉月は遠慮がちに初美の体を抱き寄せた。 初美は安心したような表情で葉月の胸元に頬を寄せた 二人の姉妹の美しい抱擁にしばしの間周りは見とれていた。 初美は身を委ねた葉月から一旦離れた。 「お万さん…葉月ちゃんとお姉ちゃんを守っていてくれたのね。有難う。」 「いいえ紅葉様…とんでもございません。わたくし等何のお役にも立てず、 むしろ葉月殿を危険に晒してしまい真に申し訳無いです。」 お万は片膝を突くと丁重に頭を垂れた。その様はまるで本物の武士のようであった 「も〜お万は相変わらず堅苦しいのね。ちょっと!イブ!いつまで葉月とくっ付いているつもり? なんでアンタを守っているはずのおっさんが私を殺そうとするのよ?それともアンタの差し金?」 初美は悪戯っぽい表情でリリスに謝った 「ゴメ〜ン。お姉ちゃん。これには深い訳があるのよ。」 「紅葉殿?この者は遠見の鏡に映し出された鬼女大姥ではないのですか?」 維茂は釈然としない顔でこの世界では紅葉を名乗る初美に尋ねた。 「御免なさい維茂さん。お姉ちゃんの事を説明していなかったわね。 お姉ちゃんの瞳を見れば分かると思うけれど色が違うでしょう。」 維茂はまじまじと碧いリリスの瞳を眺めると気がついたように言った。 「大姥は燃えるような緋の瞳…先程私と戦っていたそこの少女が見せていたような… だが顔がそっくりなのは何故ですか?」 「それは…後でゆっくり話します。とにかく今は戸隠村に戻りましょう。」 「何言っているのよ?戸隠はみーんな燃えちゃって何も残っていないじゃないの?」 「私も…戸隠が焦土と化していた事をこの目で見ました。」 「そう?お万さんも気が付かなかったの。じゃあ戸隠はしばらくの間無事ね。 さすが荼吉尼天の結界の効力。」 「ダキニテン?」 微笑みながら言う初見に対し葉月達は首を傾げた。 初美が維茂の傷をヒーリングで治療した後、葉月達は不思議な形の大岩の前に案内された。 「変な形の岩だね?だけどこの岩がどうかしたの?」 「これは釜背負岩。鬼が釜を背負っている様に見えるからそう言われているのだけれどね… この岩は結界の役割を果たしているの。」 初美は印を結ぶと真言を唱えた。 「ナウマク サマンダボダナン キリカ ソワカ…」 初美の真言に導かれるように蛍火のような光が一つ二つ集い始め無数の光が大岩を包み込む。 一つ一つが蛍火程度の燐光も無数に集まれば、さながら小太陽のように眩いばかりの輝きを放った。 大岩が浮かび上がると葉月達も体が浮遊感を感じた。 「アッ!!!」 周りの風景は薄暗い山中から開けた村に移り変わった。 それは先刻焼き尽くされたはずの戸隠村とそっくりな風景であった。 先程までと明らかに違うのは侵略を受けた痕跡が無い事だ 卯の花垣が咲き乱れた藁葺きの農家が散在し、葉月が生まれた現代には無いのどかな風景を見せていた。 「ここが本物の戸隠村よ。ようこそ葉月ちゃん。」 葉月達が見た焦土の戸隠村はなんだったのか? 何故本物の戸隠は無事なのか? 維茂が何故紅葉を名乗る初美を守り、リリスを大姥と名乗る鬼女と間違え殺そうとしていたのか? そして大姥なる鬼女の正体は何者なのか? これらの募る謎を知るために戸隠の武家屋敷に案内された。 水無瀬の内裏屋敷のような豪邸に劣るものの、中は武家屋敷とは思えない程絢爛な造りをしていた。 初美はダキニテンなる彼女の守護者に合わせてくれると言った。 そして今回の事件に関する謎も答えてくれるとも 当時としては大変な貴重品だった畳が部屋中に敷き詰められた部屋に通される 「ひさしぶりやな…葉月はん。」 聞き覚えのある声の主は昼間から大盃を口にしていた。 豪奢な金毛の女性は口元に妖しげな微笑を浮かべ葉月の方に視線を向けた。 用語説明 *葵座(あおいざ)・・・兜から髻を出す穴である天辺の座の最下部。緑が葵の花に似ている事からこの名前が付けられた。 **髻(もとどり)・・・髪の毛を頭の上で束ねたところ。平安時代では髻を烏帽子で包み天辺の穴から出す事により兜がぐらつかずに安定した。 ***袿袴(けいこ)・・・公家女子の常服。袿(うちぎ)とは表着と単の間に着る「内に着る衣」の事。 |