作者:銃太郎(SIG550)さん

ショートショート ***クリスマス幻想曲***


 ボクは音楽にはあまり興味がない。だからCDは自分で買ったことがない。
音楽を聴くのはFMラジオから流れる音楽をBGM代わりに聞き流すくらいだ。
歌うのも嫌いだからカラオケには行かない。
クラスの子が人気アーチストの話をしてるのを聞いても何の事かさっぱり解らない。

こんなボクでも一つだけ好きな曲があるんだ。

幼稚園の頃、身体が弱かったボクは外で遊ぶことが無くて、家の中で過ごすのがほとんどだった。
そんなボクに、お姉ちゃんがよく父さんのCDを聴かせてくれたんだ。
その中の一曲、ピアノの伴奏で歌われる可憐なメロディ。
「お姉ちゃん、これ何て歌?」
ボクが尋ねると、言葉の話せないお姉ちゃんが手話で教えてくれた。
〈シューベルトの「野ばら」よ〉
「しゅーべると?のばら?」
歌詞の意味は解らなかったけど、この曲を聴いている時のお姉ちゃんの横顔がとても楽しそうで、見ているとボクまで楽しくなったんだ。だからボクも「野ばら」が大好きになった。
その日から、おやつを食べた後、午後はこの歌を聴いて過ごすのがボクとお姉ちゃんの日課になった。

小学校の時、音楽の授業でこの曲を習った。でも歌詞はお姉ちゃんと聴いたのとは違っていた。
…わらべは見たり 野中のばら…
イマイチ意味がわからないので、ボクは図書館で「野ばら」について調べてみたんだ。
すると、元の詞はドイツ語で、その翻訳が載っているのを見つけた。


Sah ein Knab ein Roeslein stehn,
Roeslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschoen,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden,
Roeslein, Roeslein, Roeslein rot,
Roeslein auf der Heiden.
少年が一本のばらを見つけた。
荒れ野に咲くばらの花を。
とても若々しく朝のように瑞々しかったので、
彼は近くで見ようと駆け寄って、
喜びに溢れてそれを見た。
ばら、ばら、赤いばら、
荒れ野に咲くばらの花。


この詞は三番まであって、この後少年は野ばらを折ろうとする。
野ばらはそのとげで折られまいと抵抗するけど、結局少年に折られてしまうんだ。
ボクは、この詞の野ばらは少女の比喩で、そして少女に憧れる少年によって奪われてしまう物語なんだと思った。
その頃ボクはお姉ちゃんに特別な感情を抱くようになっていたので、すぐに少年をお姉ちゃんに、野ばらをボクに置き換えて考えるようになってしまった。
あんな風にお姉ちゃんがボクを奪ってくれたなら…
子供心にこんな感情はいけない事だと気付いていた。けどお姉ちゃんを想うとボクは…

それ以来ボクは「野ばら」を聴かなくなってしまった。



【その出来事から数年が経ったある日、お姉ちゃんはボクの前から消えた。】



ボクは悲しくて悲しくて、生きる事をやめようと何度も考えた。

でも、今は思うんだ。
お姉ちゃんは病弱だったボクを守るために降りて来た天使だったんだと。
その白い翼を隠して、ボクをいつも守ってくれていたんだ。
ボクが病床で苦しんでいた時、いつもお姉ちゃんは優しく看病してくれた。
ボクが怪我をして泣いてた時、いつもお姉ちゃんは抱きしめてくれた。
その時お姉ちゃんは、天使の白い翼でボクを包み込んで、ボクに命を分け与えてくれていたんだ。

そのおかげか今ではボクはすっかり健康になって、お姉ちゃんを守るために身体を鍛えようと始めたスポーツで学校中の人気者になってしまった。

そんなボクを見届けたかのようにお姉ちゃんはボクの前から消えた。
お姉ちゃんの役目はボクに生きる力を与える事だったから、目的を果たした今、自分は不要な存在だと思ったのかも知れない。
だから白い翼を広げ、再び天へ帰って行ったのかな。

…そんな事ないよお姉ちゃん…ずっと側にいてほしかった…ずっと側に居たかったんだ…

お姉ちゃんはボクにいっぱいいろんな事をしてくれた。
だけどボクはそれに甘えてわがままばかりだったね。
今度はボクがお姉ちゃんのためにいろんな事をしてあげる番だったのに。
どうして一緒に居られないの?

もう一度会いたいよ…大好きな大好きなお姉ちゃん…


…そうだ、久しぶりにあの曲を聴いてみよう。
ボクは父さんの部屋のCDラックを探した。
しばらく探して一番下の棚の右端に…あった!
「シューベルト歌曲集」と書かれた見覚えのあるジャケットの埃を払ってボクの部屋へ持ち帰り、枕元のコンポにセットした。

スピーカーからあの頃と同じ歌声が流れ出す。
ボクはボリュームを上げ、窓を開け放った。天上まで歌声が届くように。

冬の曇り空に歌声がゆっくりと溶けて行く。
お姉ちゃんにも聞こえてるかな…
昔一緒に聴いた「野ばら」だよ。

思い出に浸りながら一時間程ぼんやりしてしまった。気が付くと頬がぬれていた。聴きながら泣いちゃったみたいだ。
CDは最後のトラックを再生していた。
そういえば、いつも一曲目の「野ばら」ばかり繰り返し聴いていたから、最後まで聴いた事無かったな…

とても綺麗な曲だな。
その曲の美しさにボクは心を奪われ、思わず聴き入ってしまった…

ピアノの伴奏で澄んだソプラノの歌声が流れる。


Ave Maria! Jungfrau mild,
Erhoere einer Jungfrau Flehen,
Aus diesem Felsen starr und wild
Soll mein Gebet zu dir hin wehen.
Wir schlafen sicher bis zum Morgen,
Ob Menschen noch so grausam sind.
O Jungfrau, sieh der Jungfrau Sorgen,
O Mutter, hoer ein bittend Kind!
Ave Maria!

アヴェ・マリア!優しき乙女よ、
一人の娘の願いを聞いてください、
この堅く険しい巌からも
きっとわたしの祈りはあなたへと届くでしょう。
世の人々がどんなに冷たくても、
それでわたしたちは安心して朝まで眠っていられるのです。
おお乙女よ、この娘の不安を見て、
おお母よ、願う子の声を聞いてください!
アヴェ・マリア!

アヴェ・マリア!汚れ無き方よ!
わたしたちがこの巌で眠る時、
あなたの護りがわたしたちを包んでくれ
固い巌も柔らかく感じられるのです。
あなたが微笑めば、バラの香りが
この湿った岩間に匂い立ちます。
おお乙女よ、この娘の不安を見て、
おお母よ、願う子の声を聞いてください!
アヴェ・マリア!

アヴェ・マリア!清き娘よ、
大地の、空の悪魔たちを
あなたの眼の慈しみで追い払い、
わたしたちの側に住み着かないようにしてください。
わたしたちはじっとこの運命に従います。
あなたの神聖な慰めがもたらされるのですから。
この娘にやさしく身をかがめてください、
父の為に祈るこの子に。
アヴェ・マリア!



歌声に耳を奪われて気付くと演奏は終わっていた。

何て言う曲だろう?
ボクはライナーノートを見た。
タイトルは「エレンの歌第3番 アヴェ・マリア」

歌詞は敵に追われた父と岩山に隠れ住むエレンという少女が、聖母マリアに祈りを捧げるという、ある小説の中の詩で、それに作曲家が曲を付けたものだった。

ボクはもう一度再生ボタンを押した。
この曲を繰り返し聴きながらライナーノートに載っている訳詩を繰り返し読んでいるうちに、優しいマリア様に祈りを捧げるエレンにボク自身を重ね合わせていた。

お姉ちゃんを失ってから悲しくて生きる気力を無くし、抜け殻のようになっていたあの頃、世界は色を失い、この世の全ての物は無意味だと感じられた。
心は石のように重く硬く渇いて、喜びは永遠に失われたように思えた。

そんなボクがある日星空を見上げていると、お姉ちゃんの声が聞こえたんだ。
いつもボクだけには聞こえていたお姉ちゃんの心の声が。
「悲しまないで…大丈夫…全部大丈夫なのよ。」って。

ボクははっとした。やっぱりお姉ちゃんは天使だったんだ。
天から来たお姉ちゃんは天へ帰って今もボクを守ってくれているんだと思った。
その日からボクは毎夜星に向かって祈るようになったんだ。
遠いところに居てボクを見守ってくれているお姉ちゃん、ボクに命をくれたお姉ちゃん、ボクに生きて行く勇気をくださいって。
だから不幸な運命の中でマリア様の加護を痛切に祈る歌の中の少女がとても身近に思えたんだ。

ボクはこの曲が好きになった。

何度もリピートして聴いているうち、ふと窓の外に目をやった。
見慣れた景色がいつもと違って見える。

窓から身を乗り出して空を見上げる。

雪だ!

鉛色の空から真っ白な雪が、風に舞いながら後から後から降りてくる。
それはまるで、天使の羽が空に舞っているみたいだ。

そうだ、きっとあの歌声が届いて、お姉ちゃんが自分の羽を降らせてボクにその事を教えてくれてるに違いない。

お姉ちゃん…やっぱりボクを見守ってくれてたんだね。
ボクは庭に出て両手を広げ、お姉ちゃんの羽を体中に感じながらくるりと回ってみせた。
それから空をじっと見上げていると、なんだかお姉ちゃんに抱きしめられているような気がして心がじんわり暖かくなった。


もうすぐ夕方、今日は久しぶりに父さんが家に帰って来る。

部屋を飾って、ケーキとローストチキンと、父さんのためにお小遣いをはたいて買ったシャンパンを用意して、今夜はささやかなパーティーをしよう。
もちろん、お姉ちゃんの分も用意するよ。
プレゼントも用意してあるんだ。もちろん中身は後のお楽しみだからね。


ねえお姉ちゃん…
ボクが悲しむとお姉ちゃんも悲しいっていつか言ってたね。
だからボクにお姉ちゃんを忘れて欲しかったんだね。
でもボクはお姉ちゃんを忘れなかった。これからもずっと忘れないよ。

たとえこの世界のすべてが君の痕跡を失ったとしても、君の記憶を抱いてボクは生きて行こう。
お姉ちゃんが今もボクの事を想ってくれているのがわかったから…

お姉ちゃん…これからもボクのこと見守っていてね。
ボク、もう泣かないから。

あの日交わした約束、忘れないよ。

ずっと信じてるから。

だから…いつか…必ず…

お姉ちゃん…



メリークリスマス

…アイシテル…




おわり


目次へ戻る

フレームつきページ
By よっくん・K